深く深く生い茂った森の中、 いつの間にか人の往来で出来た獣道を当ても無く進む。 昨夜の雨に晒されていた地面はまだ少しぬかるんでいて 一歩踏み出すごと、地に足が捕らわれる。 適当に歩き回って帰るつもりだった。 『たまには息抜きでもどうだ』 そう言う殿の妙な気遣いに乗ってしまったのがいけなかったのだろうか 不意にどこからか、苦しそうに呻く声が聞こえた。 ほんの一瞬のこと。 次に耳をすませた時聞こえたのは、 風の音にざわつく森と、後方に鳥の行きかう音のみだ。 気のせいだったかと自分の聴覚を疑いはしたが、気になりだしては止まらない。 私は先ほど呻き声が聞こえたと感じた方へ駆け出した。 ガサガサと辿り着いた先に見えたのは一人の手負いだった。 この、戦が日常のような時世にこういった者は少なくない。 だが実際に血を流し倒れている人間を見るというのは、今となっても心が痛む。 そこが私の弱さだ。 ゆっくりと、慎重に近づく。 手負いの者と言えど油断は出来ない。 足音を消すにはうってつけのぬかるみ。 地にうつ伏せになっていたので、 とりあえず仰向けにしてみようと転がしてみる。 「うっ…」と手負いが呻いたかと思うと 次の瞬間、何かが喉をめがけ飛んできた。 私はそれを寸でのところで避けたが避けきれず、 頬に紙で切ったような痛みが走る。 無意識に左手を頬の傷に這わせると、指先に生ぬるい感覚。 同時に、手負いの者に眼を向けると まるで闇をも貫くかのような、 冷たく鋭い視線とぶつかった。 只者ではない…。 どこかの忍だろうかと、 その眼光と右手に携えられたクナイを見て思う。 糸を張ったような緊迫感が支配する、喉かな昼下がり。 どちらも一寸たりと動かず、ただ時のみが刻々と動く。 鳥の羽ばたきも、 木々のざわめきも、 聴覚に入る隙を与えない。 入ってくる唯一のものと言えば己の心音。 うるさいぐらい静かに脈打つ鼓動。 隙を見つけようと思えど見つからず、額に汗が滲み出る。 「っ…」 「!」 その時。 片膝を頼りに威嚇姿勢を保っていた忍が低く呻き、その場に倒れこんでしまった。 反射的にその身を受け止めると、 生々しい傷口に指がとらわれた。 生暖かいその感触は、見ずとも解るものだ。 手負いに出来るだけ負担を掛けないように抱き上げてみると 腰に一瞬痛みが走る。 「…私も歳か」 両腕にずっしりと重い荷物を抱えて家路を急ぐと溜め息もついてきた。 城へと歩みを進めているうちに 森の奥へ入りすぎていたことに気付いた。 ようやく門をくぐった時にはかなりの時が経っていたらしく 白く輝いていた空も赤く染まりかけている。 少しの息切れをつれて庭先に入ると、 殿の親族でもあり、私と同じく小姓でもある成実が こちらに気付き駆け寄ってきた。 「小十郎さん…その手負い、どうしたんですか」 「散歩途中に少し…それより殿は」 「梵なら甲斐へ行くって言ってた」 呆れたように笑いながら言う成実の言葉。 …殿に撒かれた…。 そう確信づいた瞬間、両腕がまたも重く感じた。 それと言うのも、連日仕事を放り出して『甲斐に行きたい』と嘆く殿を 何だかんだと言いながらも奥州へ繋ぎ止めていたのだ。 言うが易しな重労働に、ここのところ疲れが溜まっていた。 最近妙に大人しくなったと思ったら…まったくあのお方は…。 しかしこれはこれで好都合だ。 今の状況を殿に見られては弁解の余地は無いだろう。 どのみち、今日中に殿が戻ってくることは万が一にも有り得ない。 甲斐に行くと出て行った折は 十中八九、帰省は早くても翌日になる。 一国の主としての自覚はあるのだろうが その執着心にはほとほと呆れてしまう。 "あの方"を語る時の殿の顔は見ていて不愉快なものではないが せめて仕事を片付けてから行ってくれというのが 残された私たち部下の言い分だ。 こんなことを本人の居ないところで言っても… たとえ居るところで言ったとしても無駄だということは 長年の経験上わかっているのだが。 …甲斐の従者も形は違えど苦労しているのだろう。 「成実、私はこの者の手当てをするので…後のことを任せても…?」 「あぁ大丈夫ですけど…」 まだ何か言いたげな成実に、私は背を向けて自室へと向かった。 城内に血痕が残ると後から色々と面倒なので中庭から迂回して自室へ入った。 とりあえず応急処置をしているものの 助かるかも知れない手負いを、目の前に横たわらせ大きく息を吐き出す。 今思うと、何故助けようと思ったのか…。 この時世において死に逝く者を引き止めるなど笑止。 民ならばともかく…今、目の前にあるのは何処の者ともつかない忍。 多忙の所為か気でも狂ってしまったか…。 しかしここまで連れてきては仕方が無い。 己の滑稽さに苦笑しつつ手負いの着物を剥いでいくと 古傷からまだ生々しく痛々しいものまで様々に刻まれていた。 よほど気張ってきたのだろう。 これほどの傷が生半可な忠誠心で付くと思えはしない。 かと言って森での一連の動きから、ただ弱いだけだとも思えなかった。 傷と風貌から見てそれなりに日は経っている。 この忍の主はどんな方だろうか。 今も帰らぬ配下の者を、 戦の駒と割り切って冷たくも捨てているのだろうか。 それとも我らが殿のように 配下の者にも家族のように接し慈しまれ 帰らぬ配下を心から心配し、眠れぬ夜を送っているのだろうか。 …あるいはそれ以上かそれ以下か…。 どちらにせよ、今すべきことは見えている。 助けたとして…助かったとして、 この者が敵に回らないとも限らない。 むしろあのような場所で潜んでいたであろう忍。 これが敵でなくして何だというのか。 敵。 なんと重い言葉だろう。 否、言葉自体には何の重みもない。 言葉の奥、意味するものを噛み締めると 今こうして手当てをしていることが、まるで罪のような気さえしてくる。 右手に持つ湿った布が、やけに重みを増す。 思わず握り締めると柔らかい感触と同時に水滴が手を伝って滴り落ちる。 畳の上に点々と染み込んでいく水滴が一瞬、赤く見えた。 手に持っている布が刃に見えた。 刃を伝って落ちる赤い、紅い……… 「…やはり疲れているのかもしれないな……」 ゆっくりと首を左右に振って幻覚を追い払い 自嘲気味に笑みを作り、手負いに視線を向けると 同じような表情に出くわした。 「目が覚めましたか」 「………あぁ」 まだ話すことも苦しいのか、単に話すことが嫌なのか… 話しかけると手負いは小さく答える。 無理に身体を起こそうとするので、私は咄嗟に手を貸してしまった。 森でのやりとりが瞬間に浮かび、 また仕掛けられるかと思い警戒したが、そうではなかった。 彼は何の抵抗もなく背中を支える私の手を受け入れている。 「まだ動かない方がいいですよ」 「…ざまあねぇや」 この俺様としたことが、などと 軽い口調で漏らす彼の目には光がなかった。 そういう目をした者が私は 私は死ぬほど嫌いだ。 全てを諦め、 全てを拒み、 それすらも忘れ、 ただ呼吸を繰り返している。 「………。 2,3質問させて下さい」 「好きにしなよ」 嫌いだ。 「何用でこちらへ来られたのですか。主は誰です?」 だが彼は何も答えず口を閉ざして開こうとはしない。 彼が忍とわかっていただけに返答は期待していなかったが 内心穏やかではない今、何か話していないとどうにかなりそうだ。 返ってこないと理解しつつも質問を繰り返しぶつけてみる。 思った通り、手負いの返事は生返事ばかり。 こちらが望むものは返ってこなかったが、気持ちは落ち着いてきた。 私は諦めをつけて一方的に語りかけ続けた。 そうでもしないとこの者が逝ってしまいそうな気がしたのだ。 …このような経験はこれで二度目。 一度目はなんとも吐き気がしたものだったが、今はそうでもない。 だが、気が滅入ってしまうのはどうしようも出来なかった。 それは、話題に出来るものは全てと言っていいほど拾い一息吐いたとき。 手負いの一言が私の理性を一瞬にして消し去ってくれた。 「殺せ」 小さく呟かれたその言葉は、 とても大きく響いた。 「…殺してくれ」 繰り返すな。 それを切に願ったが、手負いは小さく繰り返す。 やめてくれ聞きたくない。 無意識に己の耳を両手で塞いでしまうものの、 死を望む呟きが絶えることはなかった。 「頼む…殺してくれ…」 ――小十郎…。 思い出したくない過去が溢れかえる。 …頼む、おれば殺せ―― 耳を塞いだ両手から力が抜ける。 なんとも言えない冷たく熱い感情が渦を巻く。 我慢ならなかった。 「………めて…やめて下さい…」 どうにかなってしまいそうで、 必死に己を押さえ込んで声を絞り出す。 肩から垂れた己の髪が視界の端に見えた。 落ち着かない。 落ち着けない。 何を聞くのも何を見るのも嫌になりそうで 私は叫ぶしかなかった。 「死を望むならば私を殺しなさい…っ」 俯き叫ぶ私の言葉が思いもよらなかったのだろう 手負いは動揺して息を呑んだように思えた。 「死を望む貴方を救ってしまった私は今や罪人でしかない。 …いくら命を大切にしろなど奇麗事を並べたところで貴方の望むものは死だ。 それが変わらぬ限り私は罪を業を背負わねばならない…」 今度は顔を上げて言った。 手負いは何か言おうと口を開くが私は遮り続けた。 「甘えないで下さい」 それは十年以上前に紡いだ言葉。 「死にたいのならば死ねばいい」 幼い主に向けた言葉。 「けれど…私は貴方を殺さない。絶対に」 手負いは、あの頃の主と違い、 動揺して泣き叫んだりせず 黙って私の次の言葉を待っていた。 「貴方の業は重すぎる」 あの傷だらけの身体を見据えて言う。 これだけの傷、この手負いの忠誠心は 私と同等か…それ以上だという確信がある。 それ故に… 「私には背負いきれない」 「…だから殺せって言うのか」 「!」 それは急なことで、何が起こったのか判断に迷ってしまった。 腕を掴まれ引き寄せられ 私は体制を崩し手負いの方へと倒れ込み 気付けばその腕の中に居た。 「どうかしてたわ俺」 鼓動が聞こえる。 「あんたみたいな美人、泣かせちまうなんて」 「っ…」 その言葉にハッとして彼の腕の中から逃れ、 己の頬をなぞってみるが 期待した冷たい感覚は無かった。 「泣くなよ」 「な、いてなんか…泣いてなんかいません!」 まるでさっきとは別人のように その瞳に光を取り戻し 何もかも見通したような表情で言葉を紡ぐ彼から目を逸らす。 私のムキになった様が余程可笑しかったのか 彼は、喉を鳴らし笑い出してしまった。 自分が笑われてることに少なからず顔をしかめた私だが 笑い続ける彼を見て、どこか心穏やかになり共に笑った。 「小十郎さん!」 |